コロナが気づかせた「日常生活そのもの」のかけがえのない価値
今日も冷えるなぁ、と思って目が醒めた。
気温差が激しいのは堪える。低気圧は苦手なので、なおさらだ。
寒すぎやしないか?かといって暑すぎるのも嫌いなわけで、人間というのは我儘だ。
毎朝そうするように、部屋着のままマスクをして早朝の散歩に出た。
なにか信仰があるわけでもない(こう前提を置いておかないと、変な誤解をされたくないという窮屈な思いもありながら)のに、毎朝神社に行くことが、自粛生活以降習慣になっている。
何かを願う、祈ると言うよりは
「今日一日、こう暮らそうと思います」
というようなことを、そこにいるという神様に話しかけているのか、自分自身に語りかけているのかわからないまま、境内の雰囲気や、そこに適度に満ち足りている清められた空気を感じたり身体に取り入れることが心地よくて、続いているのかなとも思う。
散歩&参拝ルートには2パターンあり、今日は「Bパターン」だ。
地図的に大きく捉えれば、東京の中心から離れていくように歩くパターンだ。このルートの途中には野菜の直売所がある。
ただし直売所と言っても、大手コンビニエンスストアの店内の一角(というにはかなりのスペースを占めており、店外にもその一角が浸潤しているが)であり、毎回そこで野菜を選んでは、有人レジに自ら運ぶ。
産地から届いたばかりのみずみずしい野菜たちは、併せて買った商品たちのようにレジのバーコードリーダーに通されることはない。
一瞬動きを止めた店員さんが、薄いゴム手袋を装着した手で値札シールを確認し、わざわざレジに数字を打ち込む。明朗な、端数に0が並ぶ税込価格だ。
この日買った野菜のひとつは「これ何だっけな?」と感じながら、とりあえず買ったものだった。
帰宅して、「何だったっけな、これは・・・」とずっと考えても思い出せず、かと言ってその像をもとにインターネットで調べるほどの探究心は湧いてこず、呆れる話だが、何なのか思い出せないまま朝食のスープに入れてなんとなく食べた。
仕事や家事をこなしながら、夕刻くらいになってようやく思い出したのだった。「あっ、あれは、ルッコラだ!」
淡々と日常を過ごしている。「家に居てください」と言われるようになった日からまもなく2ヶ月が経とうとしている。
以前は、それなりに年齢を経験を重ねてなお、社会における功績も、「年相応」の家庭や資産も得られていない自分自身を、自ら、どこか哀れんでいたフシがある。
「何かしなくては」「誰かと一緒にしあわせにならなくては」「誰かに何かで圧倒的に勝たなくては」
今は不思議なほど、その「憑き物」のようだった焦りは消えてなくなった。
見えなくなった、というよりは、溶けてなくなった感覚。あれほどまでに鎮座ましましていたのに、一体どこにいってしまったんだろう。
いまは「日常生活」そのものに、かけがえのない価値と、大切さを見直し、見出している。
眠り、起き、食事し、排泄する。
人間として生きる、生の原理。
その身近に家事があり、もう少し外の環に仕事や、社会生活がある。
今まで「環の外」ばかりを見て、翻弄されていた自分を、このコントラストで改めて確認した気もする。
「環の中」を中心に日常生活を過ごすことが、自分にとってこれほどまでに大切なことだったなんて。
このことに気付いて、これからの生き方の静かな足音に耳を澄ませているのは、自分だけではないだろうと思っている。
「情動」を正しく行使する。
修行と勉強の道半ばだが、自分ならもっとよくなれるし、幸せに生きられる、と最近は思っている。
人間の生々しさも、万物や人への感謝も、複雑な思いも、全てが共存しながら、1日1日、また「日常」のフォーマットの上で歩を進めていくのだと思う。
自分のナビで、自らチューンアップしたエンジンで、時に人の力を借り、時に誰かに力を貸しながら、自ら選んだ道を行く。
近道も、正解もない。
だったら楽しんでやろうじゃないか。
そうして心を動かし、感性を揺さぶったものたちを、
時にカメラでつかまえて、時に料理し皿にのせて、時にこうして文章にする。
僕はそうやって「これからの日常」を生きていく。浮かんできた景色にふと、笑みがこぼれた。きっと、大丈夫。