人生の価値や豊かさのことを考えた
貧乏な家に生まれて、今思えばネグレクト気味の親から18で離れて、進学から東京に就職した。「生きていてよかった」なんて思えることはそれまで一度もなく、ゲームとプロレスだけが生きがいで、異性にはコンプレックスしかなかった。
東京の同期や会社の周りの人たちは自分よりきっと育った環境にあった豊かさも、才能も、比べ物にならないくらい都会的で、洗練されていた。
ヨレヨレのスーツと、ストレスでパンパンに太った顔で、社会人生活は始まった。今世間で会食だ喚問だと騒がれている会社で始まった22歳の東京生活は、今思えばハラスメントもあったけれど、それ以上に「何も持たない猿のような若者」に優しい先輩たちとの出会いでもあった。
まともな議事録ひとつすら取れない大柄なノロマのでくの坊を、よく見捨てずに育ててくれたものだった。
始めて「まともに仕事ができた」と思えた仕事をできるころには、入社してから4年が経っていた。
汗水を振り乱し、血管を浮き上がらせながら現場に立った。
大一番本番当日の朝、朝7時に秋葉原のマクドナルドで、現場に行くまえに食べたマックグリドルの味も、中古で買ったレッツノートR4の小さなキーボードにでかい手でその日の工程表を表示させていたことも、鮮明に覚えている。
あと30分で翌日に作業持ち越し、というところでギリギリ作業が終わった。同僚と軽く乾杯をして帰路についた。翌日、もし作業をしていたら向かうはずだった秋葉原で、2008年のあの痛ましい事件が起きた。
10年前の今頃は、福島出身の女性と交際していた。
彼女の出身地は原発から20km以内の街だった。
3月11日、そして15日全ては変わってしまい、それから数ヶ月、その変化に耐えられずに交際は終わった。
「あのとき、ああしていたら」いい意味でも、悪い意味でも、そんなことは誰しもたくさんあるだろう。
あのとき、ああしなければ。
あのとき、ああしていれば。
でも、あとから悔やんでも何も変わらないし、過去の延長で今を悔やんでも、自分を責めるか、誰かを憎むか、くらいしか選択肢がない。余り豊かには思えない。
何の特技もない、愛嬌だけが取り柄で、厚かましく色んな人に助けられていた青年は、いつしかカメラを手に取り、撮影を始める。
でもそれは「自己承認」を求めるための反射のようでもあり、今振り返って写真を見るとまるで「自我の延長」でしかないようなそれは、それでも喜ぶ人がいてくれて、始めて「自分には価値があるんだ」と思えた。31歳だった。たった8年前だ。
人は幼稚だと言うかもしれない。いい歳をこいて、といわれることもわかる。
でも人それぞれ、ペースが合って、成長速度も違う。
5歳でショパンを弾く神童もいれば、50歳を過ぎて胸を打つ器をつくる壮年もいるだろう。
自己承認欲求をレンズにしてシャッターを押していた青年は、大きな挫折とともに死すら考える数年を乗り越えて、まな板と包丁を手にした。
それまで物置でしかなかったキッチンが、何よりも幸せを感じる場所になった。
モノクロだった食材が、カラフルに見えた。
過剰なまでにカラフルで、落ち着きのなかった写真はコントラストを帯びたモノクロになっていた。白黒の中に彩りすら感じさせるほどの。
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正直、挫折だらけ、ないものだらけの人生で生きてきた。
お金だってそうだった。
でも、本当に「ない」のだろうか?
嬉しいときに乾杯したい友人や恩人がいる。
迷ったときに質問したら、愛を持って解答してくれる人がいる。
何より、そうやって世界を作ってきた自分がいる。
裸一貫と言ってもいいその状態から、ここまできた。
そして、更にどんどん新たな階段を登っている。
「成功すれば、お金が入るから、それで幸せになれる」
「だから成長するんだ、挑戦するんだ」と思っていた頃が長かった。
でも、ざっと見積もると、大抵の夢は現金で1000万円もあればかなってしまう。
むしろ、もがき苦しみ、無礼と失礼を繰り返し、人を裏切り、詫び、ときに仁義すら切れず、それでも人を好きで生きてきた、その過程の中で身につけてきた気づきや出会い、変化にこそ「豊かさ」があるのではないか、と思う、思えるようになった。まだ不十分かもしれないけれど。
自己承認の触手のようにカメラをとっかえひっかえしていた頃は過ぎ、今は大切な1台のカメラを5年使っている。明日でちょうど5年経つ。死を考え続けた時期のちょっと前に出会って、その時期を共に生き抜いた。
当時自己承認のシャッターで人をかすめとることしかできなかった両手は、今は愛を持って人を撮り、大切に構え、何より当時はレンズの向こうにはなかった料理や、コーヒーを撮り続けている。
簡単なことも単純なこともそうはないけれど、つい物事を難しくしてしまう自分にとっては、簡単に考えるくらいのほうがいいのかもしれない。
何かが満たされたわけでも、達成したわけでもないけれど、今は緩やかに穏やかに
「誰かを喜ばせるために、生きている」と言えるようになった。
39歳。かなり遅いのかもしれない。幼稚なのかもしれないけど、人と比べることも無意味なので、自分を褒めるくらいはしてやろうと思った。