挫折を経て師に逢い 別れを経て運命に会う 人生は偶然の連続である
“全ての混沌には調和が、無秩序の中には秘められた秩序がある(ユング)”
朝、目を覚ましてからしばらくぼんやり考えていた。
混沌の中の調和。僕はむしろ、この数ヶ月の「混沌と定義される日々」の中に平静を見出していた。
誰かの決めた「不要不急」のリズムで踊ることを求められ、その一様さに辟易してそれをやめてみたり。
人のいないところを歩く時にマスクをずらして、ただそれだけなのに感じていた不必要な背徳感を投げ捨ててみたり。
未知のウイルスに関する根拠も無ければ論理性もない話を、同調という魔法のコトバで、まるで台本を棒読みさせられるように強いられるのもことごとく無視した。
大きな荷物を、いわば十字架を下ろしたような出来事があった。
ただの過去のひとつの「事象」に、むやみに意味を付けて、自分で重荷にしてしまっている。
客観視すればそう言い切れてしまうようなことだ。
それでも、誰しも「心に突き刺さり続け、抜こうにも抜けない棘」のような過去はひとつやふたつきっとあるだろう。僕にとって「棘どころか、ところどころ錆びて、刺槍が壊死すら起こしそうな鉄の槍」だったそれは、数年間こころを汚し、責めつづけていた。
同時に「それを選択してきた(せざるをえない)」事実もあった。
その槍をようやく抜き、消毒して傷を縫い合わせることができたのだ。
本当はそうしたいのに、できない。
自分の幸せを追求して生きるのが人の人生のはずなのに、「不要不急な」誰かの声や、価値観に従わざるを得ない。
むしろ、それにすら気づかず、日々を過ごしている人が大多数だろう。
そして仮に気付けたとしても、選択肢は無限で、自由なはずなのに、それを自ら狭めてしまう。
制限や期限はしばしば、緊張感や創意工夫を生む。理想を言えばそんなものがなくても鮮やかにかなえたい。だが、人間の意思はそんなに頑丈でも堅牢でもない。
本来は目標を明確に定め、そこに向けてひとつひとつ着実に進むほうが、決して近道ではなくてもその道程は学びと幸せに満ちたものになるだろう。そう思いたくなる時はある。
しかし実際は、仮に脚色されたそれが物語だとしても、周りを見渡して、何一つ挫折も苦難もなく目的地にたどり着いた人は見当たらない。
障害も失敗も挫折もない、成功へのハイウェイのようなものは幻のはずなのに、人はどこか、そこをひた走る人を空想し、それを実在の人間に投影し、夢を代理させることすらある。
夢の見方がわからないからだろうか。夢を諦めてしまったからだろうか。
そうして、自分ができない、かなわない願望をいとも簡単に「叶えたように」見える相手の足を掴み、引き下げることで溜飲を下げる。
そんなことをしている間も、万人に平等な時間だけは刻々と過ぎていく。
数年抱え続けた傷に刺さった槍についた血はもう固まっていた。
血は流れる。されど、止まり、そしていつか固まる。
失ったと思った空間には、新たな縁や命が宿り、自らに進む意思があれば、人生は前に進んでいく。
過去を悔やみ、後ろを振り返り、血痕を眺めて溜息をつくことも、選択できる。
全ては自由だからだ。僕もかつては、血痕を拭き取ることに躍起になったり、失った血を悔やんだりした。
今はどうだろうか?
少なくとも悔やんでいれば、抜いた槍の血を拭き取り綺麗に磨いて、ましてやリサイクルに出して世の循環に役立てようとはしていないだろう。
負った傷も、犯した失敗も、叶わなかった経験も、ページを埋める同じ活字だ。
マイナスだったと思われたそれは、抑揚の中でリズムになり、いつしか豊かなメロディーすら奏でるようになる。
無駄なことなんてない。言葉にすれば野暮極まりないフレーズなのに、抑揚のメロディーに乗った途端、ふっと誰かの心に届く瞬間がある。
それがたとえ偶然の産物だったとしてもきっと意味はあると、そう思っている。