私と写真とカメラのこと 第1回「撮影という行為」
こんにちは、料理研究家のダイちゃんです
今日は趣向を変えて「フォトグラファー」の一面で写真とカメラについて書いてみようと思います。
おそらく何度かに分けて書くことを想定して、第1回と冠しました。
今日は「撮影という行為について」
目次
とにかく撮り続けていた日々
“Hiroto with hat”(2013)
僕が写真を始めるきっかけについては、プロフィールに詳細に書いたので一旦ここでは割愛させていただくとして、、
僕は料理を始めるまでは、ライフワークが「人物の写真を撮ること」でした。とにかく、何かあるたびに撮っていました。
いつもカメラを持っていて、「どこかに行って、何かを、誰かを写真に収める」事ばかり考えていました。
それもいじわるに今思うと、「自分を認めてほしい」「自分の存在意義を感じたい」というエゴも多分にあったような気がします。
でも表現って時にそういう、「なりふり構わない勢い」も必要だったりします。
なので、後悔はしていないし、あの頃遮二無二シャッターを押し続けて、撮りあさって、様々なセミナーに出て、写真に関する本を読み漁った日々は無駄ではない、と言い切れます。
写真に自分を投影して、写真という表現だけがアイデンティティの拠り所で、写真を通して人と会話することが自分の存在意義だと思っていた時代。
今となっては危なかしくて、綱渡りで、決して褒められたものではなかったけれど、あの頃狂ったように撮り続けていた日々が、今の血肉を作っている部分もあるので、人生とはわからないものです。
データとプリント CDとライブ
“Where in the PINK”(2012)
「オンステージ」する写真
とにかく撮り続けていたのですが、スタートがデジタルカメラの自分は、1枚1枚と向かい合う写真は必然的に少なかったです。
そうした中で、上記の「賞を取り、銀座で展示をした初めての経験」になったような写真(Where?in the PINK)は、自分の中のマイルストーンになります。
何度も見て、プリントして、飾って、人に説明して、、
歌手が完成された音源を何度もライブで歌って育てていくように、写真作品もまた、画面の中から飛び出して、プリントになり、額装という「お化粧」を経てステージに立つ・・
「写真という表現」に出会って、向き合って得られたのは、こうした「自分以外の誰かに影響を与えうる写真」を創出する喜びでした(同時に、人目に触れる、評価されるという事実とも向き合うわけですが、それも含めて)。
端末とSNSの中で息吹く数多の「写真」たち
反面、視覚とシャッターと記録媒体とレンズさえあれば、写真は撮れます。
まして今はスマートフォンさえあれば何枚でも「写真」は撮れる時代。撮影のハードルはことごとく下がり、一般的な意味での写真は何を撮るかよりも、誰が撮ったかに大幅にシフトしました。
2015年のデータですが、2015年の「2分間」で撮られる写真の枚数は、19世紀の間に撮られた枚数よりも多い、という事実もある。
おそらく殆どの方が、スマートフォンの画面や、デジタルカメラの画面や、SNSの中で「写真」というものに触れていると思います。
このブログだってそう。
決してそれを軽く見たり責めたり、くさすような気持ちは一切!ないです。むしろプリント写真を鑑賞してワーワー言ってるほうが希少人種なのは自覚しています(笑)
ライブ(プリント)が好きか、CD音源(データ)が好きかは個人の好みであり、自由。ライブ盤(プリントを撮影したデータ)は?とかね。さらにプリントして、ステージに立っている写真や、それらの写真が群を成して1つの作品を構成している展示(さしあたり、モーニング娘。みたいな感じでしょうか?違うか?)を見てみるのも、とてもおすすめです。
もともとの主題の「撮影」と少し話がズレてしまいましたが、「個人的な記録」だけを目的にした撮影というよりは、「撮って、表現として他者、世界に発信する」写真のことを話している前提なので、アウトプットについても触れてみました。
そう言いながら、自分も含めた多くの人のスマートフォンの中には(今や「カメラ付き」なんて言いませんもんね。カメラはある前提だから)、「人に見せるか個人で保管するかなんて決めてないし意味がない写真」が何千枚とあるわけですから、上記のような仕分けも「写真表現者としての個人的な矜持を話している」にすぎないかも知れません。
それだけ「写真」という言葉が多様性を帯びた時代が続いているんだなということです。
“Climbing Curve”(2013)
写真に映るのはいつも「自分自身」である
“Famille en zone touristique”(2013)
これまで少なく見積もっても1000人以上は撮ってきたのだけど、写真ってセルフポートレイトだと思っています。そのまま写真に自分が出てしまう。被写体を撮影する自分が、写真に映り込む。
これは何を言っているか、ある程度写真と向き合って年数撮ってきた人にしか通じない言葉かもしれません。
たとえば上記のフランスで撮った写真は、美しい構図ながらどこか狙いすぎというか、なんか媚びてきているというか、若さを感じるんですね。自分で撮影しておいて(笑)
プロフィールにも書いてあるとおり、僕は2016年に1度「死んで生まれ変わった」ほどの壮絶な経験をしたので、自分で見返しても、そこを境にガラッと写真が変わっているんです。
“Ridiamo oggi domani”(2017)
これは「どん底から復活」して少しした頃に撮った写真。被写体の笑顔もそうですが、苦しみ・辛さから解放されて、目の前の喜びをただ純粋にとらまえたとてもいい写真だと自分でも思います。二人の笑顔から、ファインダーを覗きながら嬉しそうに笑う自分が見える。本当に「生き延びてよかったね」と今でも思える。
“Greengrocers in KYOTO”(2017)
これも2017年、おそらく4月の写真。写真の強さやかっこよさを求めるというよりは、目の前にいるあたたかな人物と空気を撮ることに集中していることがわかります。
“Hymn in misty RED”(2017)
さらに時を経て2017年秋。自らの恩人である夫婦の奥様の還暦祝い。
今まで撮影してきた全集中力、瞬発力、技術、撮影位置、、、全てを投入して、大好きな、愛する人の最高の瞬間を捉えた1枚。
「良いの撮ってやるぜ」ではなく「二人の姿を残したい」という思いを込めることができました。
こういう瞬間・・自分のできること、身につけてきた技術や知識や経験で、自分が人生を救われた人の喜びに加担できることは、この上ない喜びです。
“Rushing SUKOBURU”(2018)
最後に紹介する1枚は2018年末、馴染みの居酒屋で撮影した1枚。
飲みながら声をかけてセットした写真ですが、私自身も呼吸するようにシャッターを押しています。
おそらく2016年以前だったら、同じシチュエーションでももっと作品的というか、自身のエゴを出して作り込んだ写真を撮っていた気がします。
長く続けて、時に苦しみながらも楽しみ、向き合うことで、撮影した作品から自分の変化を感じ取ることができる。
撮影という行為は、こうした副産物ももたらしてくれます。
まとめ 写真は奥深く、楽しい。語り尽くせない!
“Meta Print Shooting”(2019)
かなり端折って書いたつもりだったのですが、結構なボリュームになってしまいました(笑)
写真については、カメラの話、写真集、写真展、「マグナム・フォト」の話、グループ写真展「御苗場」の話・・・とても数記事で語り尽くせないボリュームです。
「写真とカメラ」については、私が「料理研究家」にたどり着くまでに欠かせない歴史(写真技術・表現が、料理撮影技術や表現につながった)であり、表現、世界なので、これからも書いていこうと思います。
正直下書き時点でこの5倍くらいの分量で書きたいことがあったのですが、なんとか絞りましたw このシリーズは継続して書いていこうと思います(モニターユーザーに読んでもらったところ、とても反応も良かったので)
ダイちゃん
私の写真サイトはこちら 作品を気軽にご覧いただけます